死後の世界からの復帰

中学の頃から独学でギターはやっていたが、父は、決してプロを志す事を許さなかった。僕が 二十歳の時に父は、事故であえなく他界。父、亡き後、経済状況は多くの背信行為により180度、転換。医師の道も容赦なく断念。貧困と引き換えに音楽の道を選んだ。正式に学ぶのは初めて。当時、国際コンクール優勝後、飛ぶ鳥も落とす勢いの渡辺範彦先生の門を叩いて見た。「熱意はみとめます。が、才能と経済力の無いあなたは、やめなさい。」と、再三の懇願むなしく、あっさりと断られた。
そしてその絶望の直後、
「才能は本人が、決める
もの。君の人生、君が開きなさい。」と、名門・大沢一仁先生に入門を許された。
大沢先生の優しい言葉が無かったら僕は今日ギタリストとして存在しなかったと思う。
僕にとっては、ギター界の親父さんと慕い常に感謝している。

独学の悪い癖がついていたらしく、いつも「駄目です」の連続だった。
昔風の厳しいレッスンで、「よし」。と言われるまで練習して、考えて、練習して、考え抜くのだ。
リサイタルに通ったり、レコード(当時はCDはなかった。又、今程、数も無く高い輸入レコード)を、苦労して見つけて買ったり、またオーケストラも積極的に聞いた。必死に研究し、自分なりの理想を形作っていった。今の時代は過保護かもしれない?当時、天才少年、山下一仁氏が台頭し始め、焦る一方の毎日だった。根性、忍耐の連続で全コースを終えたのは二十三歳の時だった。当教室のシステムは厳しく、各コースそれぞれ全曲暗譜のリサイタル形式で三ヶ月に一度の試験をパスしないと進級できない。落第すれば試験料は無駄になるし三ヶ月停滞してしまう。
1回の試験が1時間の量は優に有った。それを三年で終えたのだから 、貧しいながら、僕の根性も半端じゃなかった。朝起きると手はパンパンに腫れ上がっていた。寝食、仕事以外は全てギターの日々。
当時のマドリード音大同様のカリキュラム・カルカッシ、ソル、アグアド、コスト、タレガ等のエチュード等からリサイタルレパートリーまでの超ハードな修練が今日の自信に繋がっている。今、これについて来れる若者は少ないと確信する。
無理がたたった。ある日、血尿が大量に出た。町医者では一向に直らないので大学病院を紹介された。原因を追求するためのレントゲン検査が行われた。ナースが多量の造影剤を僕に注入し始めた。何か、おかしい?耳鳴りとともに震えと吐き気がする。「看護婦さん、苦しいから、や、やめてくださ、、い。」必死にうめく様に哀願したのだった。その日、同じ検査を児童がすでに行っていたのだ。「何、言ってるの。大の大人が。あんな小さな女の子も、ちゃんとできたんだから。」と、せせら笑っている。「ハイ、レントゲン行きまーす。」その言葉を最後に聞いて呼吸困難になった。
キーンとジェット機の様な音と共に、煙突状の黒い渦に吸い上げられた。いや、そんな感覚だった。三分くらいだろうか、この世のものとは思えぬ苦痛を経て、突如スーと開放感を感じた。

暖かい、心地良い。何と言う、安堵感だろう。
ふと見ると、向こうの方で、とてつもなく美しい、一糸まとわぬ女性達が僕を招いている。何と、なんと美しいのだ。言葉では形容しきれない感動。やっと逢えたのだろうか。理想の天使に。彼女達は、ゆっくりと微笑み、僕を引き寄せている。
あー 永遠に、この瞬間を失いたくない
僕はどんどん、近ずいて行く。すると何か、もやの様な我々を遮る河の様な物にでくわした。
どうしよう?落ちそうで渡れない!
これが三途の河か。天使たちは、更に引き寄せ招いている。あなた達に抱かれたい!そう願った瞬間、僕は天使の抱擁の中にいた。心地よい。今まで体験したことも無い穏やかさ。もうこのままどーなっても良いと思った。

すると、遥かかなたから、何か聞こえてくる。おや?なんだろう?
な、なんとギターの調べだ。更に耳を澄ます。こ、これは!?
大聖堂。バリオスじゃないか。そう、僕は未だこれ完壁じゃないんだよな?畜生、!ちゃんと弾き、きりたいよう!」後悔の念が全身に満ちたその時。僕は再度あの、恐ろしい煙突状の渦を、地獄へ向かうかのごとく、落ちて行った。やはり三分位だろうか。苦しみもがいているとスーと、開放された。
どこだ。ここは?あれ?なんであんな所に俺が横たわってるの?
ウー。顔が焦げたレンガ色じゃないか。幽体分離なのだ。さっき威張ってた看護婦が泣いてる。「パルスゼロ。全くだめです。」若い医者が怒鳴っている。あれ。お袋がやってきて泣きじゃくってるじゃないか。どーなってんだ?夢か?早く、覚めたいよう!病室の中を幽霊みたいに、ぐるぐる旋回し最後に僕の顔を覗き込んだ。
「キャー」その瞬間、僕は蘇生した。僕は本能的に怒鳴った。
「早く、ビタミンとリンゲルの点滴!」看護婦は、召し使いの様に素直に従った。パニックだ。二時間経過。僕は猛烈な吐き気を感じた。大量に何か嘔吐した。医者はもっともらしく虚勢をはって言う。
「まいりましたな。まれに見るアレルギー体質です。言ってくれなきゃ、こまりますよ。我々の処置が良かったから、君は死なずにすんだのです。」結局、検査は何一つ解明できず、検査の為、保険も使えず、高い金を払って、帰った。それから後、自然治癒して健康を回復した。後で、わかったのだが、「お宅の息子さんがショック死した。」との通報で母は駆けつけたのだった。明らかに医療ミスだ
今、思えば訴えていれば、かなりの賠償請求が出来た物を?!
世間知らずの小市民は、無事、蘇生しただけで満足してしまい、
訴訟まで知恵が回らなかったのです。病院は当然、不利な記録等、抹消済み。今となっては後のまつり。

後に丹波哲郎氏の死後の世界を読み、まさしく自分の体験
は真実だと確信を持った。
しかし、
もし、ギターに対する執着心がなかったら 僕は天使の
永遠の抱擁を今なお満喫し続けていた、ことだろう。

果たして、どっちが幸せなのか。
僕は宗教は持たないがこの時初めて、
何かに生かされていると実感するようになった。
それを人は神と呼ぶのだろう。