左手首の筋、切断!絶望からの復帰!
1988、私は左手の小指の筋を切断され再起不能と診断された。その頃、ギターで生計は建てていたものの、見通しのつかない辛い毎日だった。がむしゃらな練習による過労から早めに床について薄い眠りについていた。「キャー、助けて!」と、絶叫にも似た妻(前妻)の声に、飛び起きて階下へと急いだ。なんと変質者が浴室に進入しているではないか。女房が危ない!「コラー」と怒鳴るとに同時に男に飛び掛かり、妻を逃がした。乱闘が続いた。左手に一瞬、熱いとも冷たいとも言える感覚が、走った。男の登山ナイフの一撃をもろに受けていたのだ。と同時に私も右カウンターをお見舞いしていた。
「あなた!血!」妻の悲鳴に気がつけば、左手から流れる様に出血している。血を見た男はひるんでか、一目散に侵入した窓から逃げていった。「待て、貴様」怒り、キレていた私は追いかけようとした。
「あなた、大事な手が!!」この言葉に、ハッツとした。
「救急車を呼んで、くれ!!」パニックだ。警察とほぼ同時に救急車が到着。出血は更に激しく続いている。救急隊員は即、応急処置を施した。無線で最短距離の外科を探索。金川医院に到着。
即、手術だ。
「先生、ぼ、僕、ギター弾きなんです。大した事、ありませんよね?」と診察台に横たわって尋ねた。
「完全に小指の筋が切れちゃってるね。可哀相だけどギターはもう、無理でしょう。」と先生。
サーッと血の気が引いて、全身が恐怖と不安に満ち溢れた。
「先生、何とかしてください。弾けなくなったら、もう僕は、、、、」
必死に哀願すると「うるさい!黙って!、今、やってるから」
と、怒鳴られた。
痛みと、悲しみと、不安の中、丁寧に筋をつなげるべく、手術は明け方までかかった。
犯人は残念ながら捕まらなかった。
後に分かったのだが、この先生は整形外科の権威だった。
筋を丁寧に縫合して下さったのだった。
そして、三ヶ月後、リハビリに入った。先生の対処療法はすべて完了。
しかし小指は全く動かない。外科的には完治している。
僕は運命の神をのろった。妻は泣きながら手を握り
「あなたの手が駄目になっても、あたしが一生、ささえてあげる。」
まるで映画のワンシーンの様な言葉だった。
しかし「愛はかげろふ」
その二年後、彼女は見通しのつかない、人生に疲れ、ヤマハホールのリサイタルの直後、私のもとを去った。世間は勝手なもの。
師を始め多くは僕が彼女を捨てたと解釈していた。
今だから言おう。恥ずかしながら、僕が裏切られたのだ。
しかし僕は彼女を恨んではいない。十年間、愚痴ひとつ言わず良くついて来てくれた。彼女との日々も僕の音楽性の要因の一つとなっている。ただ、幸せであって欲しいと願うばかりだ。
話を戻そう。絶望と悲しみを全身で学んだ。指が動かない。
人々は口癖のように「お気の毒に。もう弾けないね」と、口では
憐憫の情を装っている様に感じた。これで終われば負け犬だ。
医学的には完治と言うのに、何故?神経組織の麻痺だ。
何でもやろう!二つのバケツを用意した。一方に熱湯、他方に氷水。交互に手首を浸し続けた。そして、マッサージ。競馬馬の捻挫の軟膏をつぼに塗った。焼けるように染みる。皮膚の色は完全に薬焼けして変色していった。文章にすると、たやすく感じるが総て苦痛の極みだった。心に、いつかは!と念じつつ時は過ぎた。
小指がかすかに反応した。嬉しい。しかし、左と右の運動能力の
ギャップは大きい。赤んぼうと大人の差だ。
どうせ、ゼロから、のいやマイナスからの再出発だ。合理的奏法をマスターしよう。私の心の師であるイエペスの三本スケールを始めた。トレモロはa
m i 。当然スケールだって、i m より速く、合理的なはずだ。粒がそろわないのは、各指の独立性が悪いのでは?
フラメンコの奏者は何故、スケールが速いのか?ラスゲアド?!
羽の様に軽やかに、クラシックに応用出来ないだろうか?
毎日が自問自答の連続だった。
私はch,a,. m, iそれぞれ単独のブラッシング形態による指のみの
運動によるラスゲアドから始めた。次第に連続したラスゲアドドブレ
へと発展させた。左手はチェロの奏法訓練を応用した。
こうして試行錯誤を繰り返し、91に一夜に四曲の協奏曲を
オーケストラと演奏し
「前代未聞!神の助けにより成し得たのであろう。」
との批評を頂くことが出来た。
僕は、全くの努力のギタリストです。
天才でもないし英才教育出身でもないのです。
私は伝えたい。たとえ、いかなるハンディがあろうと、
その人に、情熱と意志と忍耐が有り正しい方法を実行すれば必ず大成すると確信します。
苦しんで、悲しめば、それだけ
表現力の感性のパレットは豊かになるのです。
痛みを知っているからこそ、人の痛み(苦しみ、悲しみ)が分かるのです。
思いやりのもてない人の音楽は感動を呼びません。
人間性の表出が音楽その物と信じます。